日本の取り組み 森林問題

愛知県岡崎市の森が育む漆の未来!「三河漆」の復興と新たな挑戦(前編)

徳川家康がうまれた愛知県岡崎市の山に、2023年に漆の苗が植えられました。

岡崎市は、森林が6割をしめています。その特性を活かして13か所の山に、合計3,000本ほどの漆の苗が植えられました。

この取り組みは「岡崎漆プロジェクト」として、岡崎市をはじめとした地域や行政、大学や研究機関、民間企業やNPO等が協力して始まりました。


漆といえば、漆器や鎧、兜(かぶと)、神社の装飾などに使われるイメージです。

近年は、身近なものでは無くなってきた人も多いのではないでしょうか。

日本伝統の素材である漆は、縄文時代の遺跡から発掘されています。

長期にわたって色褪せることなく、芸術品ともいわれる漆の艶、光沢の美しさは、徳川家康やその時代に生きた武士たちも、魅了されたに違いありません。

では、なぜいま愛知県岡崎市で漆を育成することになったのでしょうか。

「三大漆産地」だった愛知県三河地方の漆

かつて愛知県の三河地方は、鎌倉、仙台と並び、日本の『三大漆産地』として有名でした。

いまや知る人が、ほとんどいない三河漆(みかわうるし)ですが、かつては品質がよく優れている漆として有名でした。

その、三河漆を復興するために、愛知県岡崎市で漆の栽培がはじまったのです。

歌川広重も、三河漆について『大日本物産図会 三河国 漆取之図』を描いています。当時、三河漆が盛んだったことがうかがえます。

海外では、「JAPAN」と呼ばれている日本を代表する漆ですが、日本国内で使用されている国産の漆はわずか7%程。ほとんどの漆は、中国産を使用しているのが現状です。

そのため、三河漆を復興することで、古くからの文化財を国産の漆で修復し、保存することで、貴重な文化遺産を守っていくことができます。

国産の漆は、日本の気候によって良質な樹液をつくってくれるのです。

三河漆の復興は、日本の伝統を引き継いでいくことを使命としています。


(所在地:愛知県岡崎市滝町字山籠)

「三河漆」の栄光と衰退!徳川時代からの歴史

愛知県の三河地方は、江戸時代から明治初期まで、日本で有名な漆の産地でした。

しかし、志那漆(中国産の漆)が安く手に入ることや、養蚕がさかんになり、桑の木栽培が増加したことが原因で、漆の木の栽培が衰退していきました。

三河漆は、東加茂郡足助町(ひがしかもぐん あすけちょう/現在は豊田市へ編入)が漆の産出量が多く本場といわれていました。

他には、設楽郡(したらぐん)や他の村も産地の一部として記録にのこっています。

江戸時代の三河の武将といえば徳川家康ですが、その家臣である松平家忠の日記にも記されています。

「天正十八年に足助(愛知県豊田市)に漆を買いに人を遣わしている。さらに天正十七年七月四日にも足助に漆と綿を調えるために人を遣わしている。」

また、足助以外に鳳来寺(愛知県新城市)に漆を購入するために人を派遣しています。

漆は上流階級にとって高級感をだす重要な物です。徳川家で使用する漆器を岡崎の塗師「藤国」が製作していたと、日記からみうけられます。

明治初期は、官の奨励により漆栽培が盛んにおこなわれていました。東加茂郡足助町の検知帳の記録には、「漆の木が年貢として納められていた」と記されています。

しかし、越前から三河へ漆掻きの出稼ぎ者が多く、三河漆を越前漆として売られたことをきっかけに衰退していきました。

その結果、漆栽培よりも、養蚕や桑の木栽培の方が盛んになってきたのです。

明治20年ごろ土地の整理により、漆の木の伐採命令がでたことで、漆の木は姿を消していきました。

漆の木を大切に育てていた主は、大粒の涙をながしたそうです。

中編は以下からご覧ください。

 

【参考文献】

特用林産物の生産動向 うるし「https://www.rinya.maff.go.jp/j/tokuyou/tokusan/」 林野庁(参照:2024-1-11)

盛本昌広(令和4年)「家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ」P198~P200 

角川ソフィア文庫 鈴木茂夫(2001) 「足助の漆」足助町緑の村協会

国指定:建造物 滝山寺三門「https://www.city.okazaki.lg.jp/1300/1304/1332/p021466.html」岡崎市(参照:2024-1-16)

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